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1996年度 子持ち女の転職活動

3月、赤ん坊と粉ミルクとポット持参で衝動的に住宅探しを始めました。狭いけれどタダ同然の社宅で共働きを3年続けたところ、いつの間にか頭金が貯まっていたのでした。夫も堅実に住宅財形貯蓄を積み上げていました。

渋谷から2駅、駅からも近い場所に一戸建てを購入しました。それからは転居先の保育所を探し回りました。認可園に空きがあったものの、18時までしか預かってくれないということでした。それでは毎日定時ダッシュで帰らないといけないので、無理です。運営難の無認可保育所に交渉して、延長保育をしてもらうことにしました。

職場では、前年度末の人事大異動で上司が変わっていました。営業出身の気さくな人でよいかと思いましたが、単に無責任で物忘れがひどく、キャンセルやダブルブッキングを平気でする男とわかるまで、さほど時間はかかりませんでした。また、短期間で負担の多い仕事を命じた挙句にその結果を無にされることもしばしばで、同僚も疲弊し始めました。

許せなかったのは、前年度下半期の人事考課です。復帰してまた担当することになり、当然自分の評価結果を見ることになります。すると、業務量や成果面ならいざ知らず、業務知識や折衝力といった項目にまで、すべて最低の評価を付けられていました。抗議しましたが、「産休で3ヶ月いなかったのだから、高い評価を付けるわけにはいかない」「みんなに迷惑をかけたんだからな」と、訂正を拒まれました。産後に復帰する女性がまだ少なかったこともあり、産休の場合の評価ルール、日数に応じた事後の係数調整、といったガイドラインはなく、上司次第でした。地方で復帰した女性にはこんな点数はついていませんでした。低い評価で賞与額を下げる発想しかありませんでした。

こんな人間の下では働けないと思い、転職紹介会社を利用して転職活動を始めました。個別の応募に比べると、応募書類原稿を1部書いて預ければよいため楽だったのですが、そこの指定履歴書には家族の記入欄があり、小さい子がいたせいか、ほとんどの会社から面接を断られました。

それでも秋葉原の大手PC販売会社から、人事システム担当急募ということで熱烈なアプローチがあり、面接で話を決めました。翌月末で辞めてすぐ来てほしい、と求められました。就業規則では、退職は1ヶ月前までに申し出る、と定められているため、ぎりぎり間に合うように上司に辞意を伝えました。「そんな急に勝手なことを言うなら、円満に辞められないようにしてやる」などと言われ、泣く泣く断るほかありませんでした。

次は市販の履歴書(家族欄なし)を使って、総合商社の子会社である人事アウトソーシング会社に応募しました。3月頭に内定を得ました。